ミヒャエル・エンデ『モモ』(大島かおり・訳, 岩波書店, 1976)


とあるところで『モモ』の懐かしい表紙を見て、自分も読みたくなり、箱入りのハードカバー版を本屋さんで買ってきた。

小型で価格が安いので、岩波少年文庫でも良いかなと思ったけれど、ページをめくってみると漢字についたルビの多さが気になり読みにくそうだったのでやめた。ハードカバー版にも同様にルビはふってあるが、文字の組み方がゆったりと幅広くしてあるからか、こちらはまるで気にならない。それでハードカバー版を選んだ。

「プレゼントですか?」と本屋さんのレジの女性が笑顔で聞いてくれた。少々照れつつ、「いいえ」と答えた。私の買ったハードカバー版の『モモ』には第73刷と書いてある。長年この本は大人から子供への贈り物として買われてきたのだろう。『モモ』を読むのは子供の時いらいだ。その頃もこの箱入り版で読んだ。もしかしたらまだ実家にあるかもしれない。

『モモ』のあとがきでエンデは意味深なことを書いている。この物語は過去のもののように語られたが、将来のこととして話してもよい、というように書いている。大人になって『モモ』を読むと、この物語はまさに、「今」の話ではないか、と思う。

ある人々は時間を節約しようとあくせく働くが、実際は働けば働くほど時間はまるでなくなってゆく。効率を追求すればするほど、それはどんどん非効率になる。

時間の節約など考えず、時間がたっぷりある人々は、今度はそれを一緒に楽しむ友達がいない。人々はみな、時間に追われているからだ。時間を楽しむ暇なんか、誰ひとりこれっぽっちも持ち合わせていない。誰に何を聞かれても、返す言葉はみな同じ。

「あとにしてくれ、忙しいんだ。そんなことをやっている暇なんて、ありゃしない。」

自分の人生の時間を手放さなかったモモは、とうとう街で孤独になる。今までいた仲間や友達は誰もいなくなってしまう。子供でさえ、“為になる教えられ用意された遊び”しかしなくなる。モモは打ちひしがれて負けそうになる。孤独に耐えきれず魂を売りそうになる。しかしそれさえもできない。

でもモモは気がついた。モモにはカシオペイアという名のカメがいたし、時空を超えたところには、時間を司りモモを見守ってくれるマイスター・ホラがいた。それでモモは孤独ではないことを思い出す。一番どん底まで気持ちが沈んだ先に、勇気がみなぎるってことにもモモは初めて気がつく。モモはホラを手伝い、みんなの時間を取り戻す。

時間は節約しても貯められない。急げば急ぐほどそれはなくなってゆく。そしてなくなるのは時間ばかりじゃない。朗らかな心も笑顔もユーモアも、すべて一緒に消えていく。

『モモ』は過去の話でもなければ、未来の話でもない。子供達にとってはまだその両方かもしれないが、大人達にとってはおとぎ話でさえもなく、『モモ』は「今」の話である。


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